大学に入る頃には、私はかなり傲慢になっていた。
数学や科学、進化論も学び、それらがどのように結びつくのかが見えていた。
ある日、同じ理系の学生たちと話していると、誰かが「神」という言葉を口にした。
「まさか神がいるなんて信じてないよね?」
「いや、信じてないよ。」と、私は軽く頭を振った。
(でも、心の中では「これを言ったせいで神に殺されるんじゃないか?」と思っていた。)
その考えが本当に引っかかった。
論理的には神なんていないと思っていたのに、心のどこかで「神はいる」と感じていた。
数年後、私は哲学を学び、その中で「神の存在」についても扱った。
私は、「神はいない」ことを証明する、強力な論理を学べることを期待していた。
しかし、多くの論文や記事を読んでも、いつもがっかりさせられた。
「これが私たちの持つ最高の反論なのか?」と。
課題として、「反対の立場」も学ばなければならなかった。
そこで、ウィリアム・ペイリーの論文を読んだ。
その中のいくつかの議論は私にとって納得のいくものだった。
特に、「誰も行ったことのない場所で時計を見つけた男」の話だ。
科学が「進化はただ起こった」と言うとき、私たちはそれを受け入れる。
しかし、時計が「ただ偶然できた」とは決して信じない。
時計は複雑で、明らかに設計され、意図的に作られたものだ。誰かが作ったのだ。
それなのに、時計よりはるかに複雑な「木」は、ただ偶然にできたと受け入れている。
私は気づいた。神はいる。
彼の名前も、どこで見つけられるのかもわからなかった。
でも、彼がどこかにいることはわかった。
教会には行かなかったし、聖書も読まなかった。
ただ、神に話しかけるようになった。
たいていは、うまくいったときの感謝の祈りだった。
当時住んでいた街は、雨が多かった。
私はいつも自転車で移動していたので、雨の中を走るのは当たり前だった。
しかし、それから気づいたのは、私はほとんど濡れなかったということだ。
出発時に雨が降っていても、すぐに止んだ。
降りそうな雰囲気でも、なぜか目的地に着くまで降らなかった。
正直なところ、これは私を少し怖がらせた。
神が関わっているように感じたが、理由がわからなかった。
彼が私に何を望んでいるのかもわからなかった。
その後、数年が経ち、私は「雨の実験」をするようになった。
山歩きのとき以外は、傘もコートも持たずに外に出ても、濡れることはないと確信していた。
しかし、私は大きな失敗を犯した。
神が喜ばないことをしたと思う。
そして、友人たちも皆、私を見捨てた。
道を歩いていると、彼らは私を避けるために道路の反対側に渡るほどだった。
ただ、一人だけ、私を見捨てなかった友人がいた。
彼女は、「あなたが間違ったことをしたと思う」と正直に言った。
でも、私が落ち着くまで、彼女の家に住まわせてくれた。
そして、彼女は私に聖書をくれた。
(彼女は私がすでにクリスチャンだと思っていた。実は私もそう思っていた。神を信じていたから。)
彼女は私を教会にも誘ってくれた。
私はそれまで一度も教会に行ったことがなかった。
ただ、神と話していただけだった。
数ヶ月後、新しい友達もでき、彼らと一緒に土曜の夜に聖書を学ぶようになった。
最初は、ただの歴史書だと思っていた。退屈だった。
でも、その先生は聖書のことを今まで考えたこともないような視点で教えてくれた。
聖書には力があると教えてくれた。
彼は、旧約聖書の中にイエシュア(Yeshua)を見せてくれた。
彼は、出エジプト記の過越祭(パスオーバー)が、イエシュアのことだったと教えてくれた。
彼は、イエシュアの死の詳細が、千年以上前に予言されていたことを示してくれた。
この本は、ただの本ではなかった。
私は、友人がくれた聖書を読み始めた。
それは、私の心を動かし始めた。
それから数ヶ月後の日曜日。
毎週教会に通っていたが、その週末は友人たちが教会のキャンプに行っていて、私は一人だった。
夕食を作っていると、大雨が降っていた。
「今夜は教会に行かなくてもいいか」と考えた。
でも、考えた。「夕食を食べ終わるまでに時間があれば行こう。」
夕食を食べ終えると、まだ時間があった。
「じゃあ、皿洗いを終わらせるまでに時間があれば行こう。」
わざとゆっくり皿を洗った。でも、まだ15分も余っていた。
「でも、雨が…」
しかし、ここ2年間の雨との関係を思い出した。
私は笑った。「わかったよ。行くよ。雨は止む。」
大雨の中、コートも傘も持たずに家を出た。
そして、門までの20歩を歩く前に、雨は止んだ。
教会までの道のりを、ずっと笑いながら歩いた。
教会に着いた瞬間、雨は再び激しく降り始めた。
それまでよりも激しく。
その夜の教会は、人が少なかった。
私は前の方に一人で座った。
礼拝が始まり、前を見ると、パンとぶどう酒があった。
私は一度も聖餐式を受けたことがなかった。
「自分が受けてもいいのかわからない」と思っていた。
でも、その週、友人に聞いて、受けてもいいことを知った。
その瞬間、私は理解した。
「私はイエシュアに属している。」
礼拝の間、一人で座り続けた。
喜びの涙が止まらなかった。
説教の内容は覚えていない。
音楽も覚えていない。
誰と話したのかも覚えていない。
一人で歩いて帰った。
完全に変えられていた。
神に感謝。