同等どうとうけど、おなじない

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コリントじんへのだいいち手紙てがみ13












平等びょうどうとは「わたしたち全員ぜんいんおなじものをっていること」ではない。

もういち、2まい画像がぞうくらべてみましょう。
今回こんかいなんえますか?





ひとつのかんがかたは「ただしさ」にもとづき、判断はんだんし、みずからの正当せいとうせい主張しゅちょうします。もうひとつのかんがかたは「あい」にもとづき、正義せいぎもとめ、自分じぶん自身じしんたかすぎません。
左側ひだりがわかんがかたは「みんなおなじものをっている」という理屈りくつみずからを正当せいとうします。「自分じぶんっているものできていけないひとがいるのは自分じぶんのせいではない。」「自分じぶんちから成し遂なしとげられるかどうかが重要じゅうようだ。」
一方いっぽうで、右側みぎがわかんがかたは「すべてのひと正義せいぎをもたらそう」とします。それはあいしめ行為こういであり、犠牲ぎせいともないます。それは、だれかがなんかを手放てばなすことを意味いみします。それは、ときには自分じぶん正当せいとうたもの、保持ほじする権利けんりのあるものを手放てばなすことかもしれません。でも、それはおそらく「本当ほんとう必要ひつようなもの」ではないでしょう。
それは、だれかが「本来ほんらい受け取うけとるべき以上いじょうのもの」をにすることを意味いみするかもしれません。しかし、それはすべてのひと平等びょうどう価値かちある存在そんざいとしてあつかい、そのためにあい行動こうどううつすことなのです。
あい犠牲ぎせいともないます。あい自己じこ否定ひていもとめます。あいは、自分じぶん利益りえきこうむることを受け入うけいれることです。あいは、なんかを手放てばなすことをもとめます。
このテーマは「ほどこし(Giving)」という言葉ことばかたられることがおおいですが、キリストきょうにとっては、「どれだけあたえるべきか?」ではなく、「どれだけ自分じぶんのものとしてのこしているのか?」をかんがえるほう重要じゅうようなのです。
キリストきょうは「あたえること」についておおくをまなびます。かくれてあたえなさい。しまず、よろこんであたえなさい。しみなくあたえなさい。これらを理解りかいするのはむずかしくないはずです。それでも、おおくのひとうのは、「どれだけあたえなければならないのか?」ということです。
みじかこたえは… ゼロです。あなたはなんあたえる必要ひつようはありません。ながこたえも… ゼロです。あなたにはなん所有しょゆうしていないのです。
もしこの意味いみ見落みおとしていたら、よくんでください。みじかこたえとながこたえはちがいます。
現代げんだいのキリストきょうにおけるおおきな誤解ごかいのひとつは、「自分じぶん所有しょゆうぶつがある」というかんがえです。わたくしたちがっているすべてのもの—財産ざいさん収入しゅうにゅう—それらはすべてわたくしたちのものではありません。それらはすべてかみのものであり、かみわたくしたちに管理かんりまかせているのです。
わたくしたちは「所有しょゆうしゃ」ではなく「管理かんりしゃ(スチュワード)」なのです。管理かんりしゃとは、だれかの財産ざいさんやおかねわりに管理かんりするひとのことです。
このかんがかた理解りかいすれば、「どれだけあたえるか?」ではなく、「どれだけのこすか?」という視点してんわります。
もちろん、かみわたくしたちが自分じぶん家族かぞく生活せいかつのために一部いちぶのこすことをのぞんでいます。しかし、わたくしはなしたおおくの「寛大かんだいだとおもわれている」現代げんだいのキリストきょうでさえ、かみからたくされたものの90%以上いじょう自分じぶんのためにのこしているのが現実げんじつです。
でも、だからといって他人たにんさばいてはいけません。「各自かくじこころめたとおりにあたえなさい。」(2コリント9:7)どれだけのこすかをめるのはあなた自身じしんです。そして、もしかみが「あなたはちすぎている」とおもうなら、それはかみ直接ちょくせつあなたと向き合むきあうことです。
では、あなたはどうでしょうか?自分じぶんが「ちすぎている」とおもいますか?かみが「なぜこんなにおおくを自分じぶんのためにのこしたのか?」とたずねたら、納得なっとくできるこたえをっていますか?
あなたは、寛大かんだいだとかんじていますか?
ある、イエス(Yeshua)は神殿しんでんでの献金けんきんていました。(当時とうじは、献金けんきんばこがあり、人々ひとびと直接ちょくせつそこにささげていました。)金持かねもちは、財産ざいさんの10%をほこらしげにささげました。まずしいやもめは、ずかしそうに、ちいさな2まい銅貨どうかささげました。それは彼女かのじょ生活せいかつのすべてでした。イエスはいました。「彼女かのじょほうが、はるかにおおくをささげた。」
彼女かのじょささげたのは、1賃金ちんぎんの60ぶんの1程度ていど、ほんのわずかながくです。一方いっぽうで、金持かねもちはおそらく何千なんぜんドルに相当そうとうするがくささげました。しかし、それでも彼女かのじょほうが「おおささげた」のです。なぜなら、彼女かのじょっているものすべてをささげたからです。
では、あなたはどれだけのこすべきでしょうか?それはあなたの状況じょうきょう—あなたがっているもの、必要ひつようとしているもの—に依存いぞんします。あなたは、本当ほんとう必要ひつよう以上いじょうのものをのこしていませんか?
最終さいしゅうてき大切たいせつなのは、「なぜ」そのがくのこしているのか、です。
キリストきょうでは、行動こうどうそのものよりも、「なぜ、それをするのか?」が重要じゅうようです。
あなたは、寛大かんだいになろうとしていますか? それとも、自己じこ中心ちゅうしんてきになっていますか?あなたは、よろこんであたえていますか? それとも、おかね手放てばなすことにくるしんでいますか?あなたは、おかねたよりにしていますか? それとも、かみ信頼しんらいいていますか?
では、どれだけあたえるべきでしょうか?
「どれだけ必要ひつようなのか?」をかんがえてください。そして、その理由りゆうかんがえてください。
「これはわたくしのおかねではない」という意識いしきちましょう。この意識いしきつことで、おかねたいする執着しゅうちゃくうすれ、おかね支配しはいされることがなくなります。
そして、自由じゆうあたえることができるようになります。「自分じぶん寛大かんだいだった」とおもえるまであたえることができるようになります。そうなれば、よろこんであたえることができるようになります。
しみなく、よろこんで、なん計算けいさんせずにあたえることができたとき…あなたは、きっと「ちすぎていない」状態じょうたいになっているでしょう。
そのとき、あなたは「なんパーセントならただしいか」をかんがえるのではなく、「どうすればあいをもってあたえられるか」をかんがえるようになるのです。
そのとき、あなたは「あいによってあたえる」ことができるのです。

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