もう一度、2枚の画像を比べてみましょう。
今回は何が見えますか?

ひとつの考え方は「正しさ」に基づき、判断し、自らの正当性を主張します。もうひとつの考え方は「愛」に基づき、正義を求め、自分自身を高く見すぎません。
左側の考え方は「みんな同じものを持っている」という理屈で自らを正当化します。「自分が持っているもので生きていけない人がいるのは自分のせいではない。」「自分の力で成し遂げられるかどうかが重要だ。」
一方で、右側の考え方は「すべての人に正義をもたらそう」とします。それは愛を示す行為であり、犠牲を伴います。それは、誰かが何かを手放すことを意味します。それは、時には自分が正当に得たもの、保持する権利のあるものを手放すことかもしれません。でも、それはおそらく「本当に必要なもの」ではないでしょう。
それは、誰かが「本来受け取るべき以上のもの」を手にすることを意味するかもしれません。しかし、それはすべての人を平等に価値ある存在として扱い、そのために愛を行動に移すことなのです。
愛は犠牲を伴います。愛は自己否定を求めます。愛は、自分が不利益を被ることを受け入れることです。愛は、何かを手放すことを求めます。
このテーマは「施し(Giving)」という言葉で語られることが多いですが、キリスト教徒にとっては、「どれだけ与えるべきか?」ではなく、「どれだけ自分のものとして残しているのか?」を考える方が重要なのです。
キリスト教徒は「与えること」について多くを学びます。隠れて与えなさい。惜しまず、喜んで与えなさい。惜しみなく与えなさい。これらを理解するのは難しくないはずです。それでも、多くの人が問うのは、「どれだけ与えなければならないのか?」ということです。
短い答えは… ゼロです。あなたは何も与える必要はありません。長い答えも… ゼロです。あなたには何も所有していないのです。
もしこの意味を見落としていたら、よく読んでください。短い答えと長い答えは違います。
現代のキリスト教における大きな誤解のひとつは、「自分の所有物がある」という考えです。私たちが持っているすべてのもの—財産、収入—それらはすべて私たちのものではありません。それらはすべて神のものであり、神が私たちに管理を任せているのです。
私たちは「所有者」ではなく「管理者(スチュワード)」なのです。管理者とは、誰かの財産やお金を代わりに管理する人のことです。
この考え方を理解すれば、「どれだけ与えるか?」ではなく、「どれだけ残すか?」という視点に変わります。
もちろん、神は私たちが自分や家族の生活のために一部を残すことを望んでいます。しかし、私が話した多くの「寛大だと思われている」現代のキリスト教徒でさえ、神から託されたものの90%以上を自分のために残しているのが現実です。
でも、だからといって他人を裁いてはいけません。「各自が心に決めた通りに与えなさい。」(2コリント9:7)どれだけ残すかを決めるのはあなた自身です。そして、もし神が「あなたは持ちすぎている」と思うなら、それは神が直接あなたと向き合うことです。
では、あなたはどうでしょうか?自分が「持ちすぎている」と思いますか?神が「なぜこんなに多くを自分のために残したのか?」と尋ねたら、納得できる答えを持っていますか?
あなたは、寛大だと感じていますか?
ある日、イエス(Yeshua)は神殿での献金を見ていました。(当時は、献金箱があり、人々が直接そこに捧げていました。)金持ちは、財産の10%を誇らしげに献げました。貧しいやもめは、恥ずかしそうに、小さな2枚の銅貨を捧げました。それは彼女の生活費のすべてでした。イエスは言いました。「彼女の方が、はるかに多くを捧げた。」
彼女が捧げたのは、1日の賃金の60分の1程度、ほんのわずかな額です。一方で、金持ちはおそらく何千ドルに相当する額を捧げました。しかし、それでも彼女の方が「多く捧げた」のです。なぜなら、彼女は持っているものすべてを捧げたからです。
では、あなたはどれだけ残すべきでしょうか?それはあなたの状況—あなたが持っているもの、必要としているもの—に依存します。あなたは、本当に必要な以上のものを残していませんか?
最終的に大切なのは、「なぜ」その額を残しているのか、です。
キリスト教では、行動そのものよりも、「なぜ、それをするのか?」が重要です。
あなたは、寛大になろうとしていますか? それとも、自己中心的になっていますか?あなたは、喜んで与えていますか? それとも、お金を手放すことに苦しんでいますか?あなたは、お金を頼りにしていますか? それとも、神に信頼を置いていますか?
では、どれだけ与えるべきでしょうか?
「どれだけ必要なのか?」を考えてください。そして、その理由も考えてください。
「これは私のお金ではない」という意識を持ちましょう。この意識を持つことで、お金に対する執着が薄れ、お金に支配されることがなくなります。
そして、自由に与えることができるようになります。「自分が寛大だった」と思えるまで与えることができるようになります。そうなれば、喜んで与えることができるようになります。
惜しみなく、喜んで、何も計算せずに与えることができたとき…あなたは、きっと「持ちすぎていない」状態になっているでしょう。
そのとき、あなたは「何パーセントなら正しいか」を考えるのではなく、「どうすれば愛をもって与えられるか」を考えるようになるのです。
そのとき、あなたは「愛によって与える」ことができるのです。