一致いっちvs画一かくいつ

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コリントじんへのだいいち手紙てがみ
コリントじんへのだいいち手紙てがみ
コリントじんへのだいいち手紙てがみ12
ペテロのだいいち手紙てがみ












かみが「ただしくなければならない」とおしえている聖書せいしょ箇所かしょつけてみてください。

まえに、まずこの2まい画像がぞうてください。そして、なんえるかおしえてください。





おそらく、こううのではないでしょうか。「男の子おとこのこ帽子ぼうしがなくなっている。女の子おんなのこべつ方向ほうこういている。バケツとスコップの位置いちぎゃくになっている。」
そうですね… そしてかさきもわっています。

では、わたくしにはなんえるでしょうか。
それは、おな男の子おとこのこおな女の子おんなのこが、おなすなしろを、おなじビーチで、おなかさちかくでつくっている2まい写真しゃしんです。

この意味いみがわかりますか?

わたくしたちは、ちがいをつけるのがとても得意とくいです。本能ほんのうてきにできてしまいます。
しかし、共通きょうつうてんるのは簡単かんたんではありません。わたくしたちをひとつにするものをるのはむずかしいのです。
99%の共通きょうつうてん見落みおとし、1%のちがいにばかりけてしまいます。そして、教会きょうかいでは… その1%のちがいにけるだけでなく、それが原因げんいん分裂ぶんれつしてしまうのです。

かなしいことに、これはむかしからつづいている問題もんだいです。
パウロはコリントにんへのだいいち手紙てがみでこうっています。
兄弟きょうだいたちよ、わたくしはあなたがたにれいひとたいするようにはかたれず、にくひと、キリストにある幼子おさなごたいするようにかたりました。わたくしはあなたがたにちちませ、かた食物しょくもつあたえませんでした。あなたがたはまだそれにえられなかったからです。実際じっさいいまでもえられません。 あなたがたはまだにくひとだからです。あなたがたのあいだにねたみやあらそいがある以上いじょう、あなたがたはにくひとであり、人間にんげんのようにあゆんでいることになりませんか? あるひとは『わたくしはパウロにしたがう』とい、べつひとは『わたくしはアポロにしたがう』とう。それでは、あなたがたはただのひとではありませんか?
では、アポロとは何者なにものでしょうか? パウロとは何者なにものでしょうか? それは、あなたがたがしんじるにいたったしもべであり、それぞれぬしあたえられた任務にんむたしたものにすぎません。 わたくしえ、アポロはみずそそぎました。しかし、成長せいちょうさせたのはかみです。 だから、えるものも、みずそそものるにりません。ただ成長せいちょうさせてくださるかみだけが重要じゅうようなのです。 えるものみずそそものひとつの目的もくてきち、それぞれ自分じぶん労苦ろうくおうじて報酬ほうしゅうけます。 わたくしたちはかみ協力きょうりょくしゃであり、あなたがたはかみはたけであり、かみ建物たてものなのです。」
わたくしたちは、すぐに分裂ぶんれつしてしまいます。
それは「ただしさ」に執着しゅうちゃくしているからではないでしょうか。
ただしくあること」、そして「ただしいとられること」にこだわってしまうのです。
しかし、だれただしいかなんて、なん意味いみがあるのでしょうか?
聖書せいしょなかで「ただしくなければならない」とかみめいじた箇所かしょさがしてみてください。
しかし、たとえただしいか間違まちがっているかにかかわらず、たがいに愛し合あいしあうようにとわれた箇所かしょつけることができます。
たとえば…
じつは、たがいに訴え合うったえあっていること自体じたい、すでにあなたがたの敗北はいぼくです。なぜ、むしろ不正ふせいけないのですか?なぜ、むしろだまされないのですか?」
かみわれるのは、「だれただしいか」ではなく、「だれあいしているか」です。
コリントにんへのだいいち手紙てがみ12しょうでは、わたくしたちがそれぞれことなっているが、ひとつのからだ一部いちぶであることについてかたられています。
実際じっさいわたくしたちはそれぞれすこしずつちがうようにつくられています。
あなたはわたくしあしだれかは
でも、みんな必要ひつようなのです。
わたくしたちはくも、ハンマー、といった、共通きょうつうてんのないものではありません。
わたくしたちはひとつのからだ部分ぶぶんなのです。
もし、が「わたくしたちはでないものからだ一部いちぶとはみとめない」とったら、どれほど馬鹿ばかげたことでしょうか。
わたくしたちはみなおなじであり、すこしずつことなっているからこそ、よりやくつのです。
ペテロのだいいち手紙てがみ2しょうでは、わたくしたちはきたいし建物たてものであるとかたられています。
いしです。レンガではありません。

わたくしたちはみなおなじですが、完全かんぜん同一どういつではありません。

いしはすべて「いし」です。それぞれすこしずつちがっていますが、それでもすべて「いし」です。
それらはひとつの建物たてもの形作かたちづくります。

もしレンガの建物たてものなら、そこには一様いちようせい(uniformity)しかありません。
しかし、わたくしたちは「きたいし」であり、ちがいをちながらもひとつになっています。それが「一致いっち(unity)」なのです。
わたくしたちは、ちがいではなく、共通きょうつうてんけるべきです。
わたくしたちはみなきたいし」です。
それってすごいことではありませんか?
あなたは「きたいし」をたことがありますか?
それなのに、わたくしたちはのクリスチャンに出会であったとき、「わあ、またべつきたいし出会であえた。素晴すばらしい!」とうのではなく…
「あなたはちがう。あなたは受け入うけいれられない。」とってしまうのです。
では、あなたはどうですか?
共通きょうつうてんていますか? それともちがいにばかり注目ちゅうもくしていますか?
あなたがもとめているのは「一致いっち」ですか? それとも「一様いちようせい」ですか?
あなたは「あいしている」のですか? それともただ「ただしい」だけですか?

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