読む前に、まずこの2枚の画像を見てください。そして、何が見えるか教えてください。

おそらく、こう言うのではないでしょうか。「男の子の帽子がなくなっている。女の子が別の方向を向いている。バケツとスコップの位置が逆になっている。」
そうですね… そして傘の向きも変わっています。
では、私には何が見えるでしょうか。
それは、同じ男の子と同じ女の子が、同じ砂の城を、同じビーチで、同じ傘の近くで作っている2枚の写真です。
この意味がわかりますか?
私たちは、違いを見つけるのがとても得意です。本能的にできてしまいます。
しかし、共通点を見るのは簡単ではありません。私たちを一つにするものを見るのは難しいのです。
99%の共通点を見落とし、1%の違いにばかり目を向けてしまいます。そして、教会では… その1%の違いに目を向けるだけでなく、それが原因で分裂してしまうのです。
悲しいことに、これは昔から続いている問題です。
パウロはコリント人への第一の手紙でこう言っています。
「兄弟たちよ、私はあなたがたに霊の人に対するようには語れず、肉の人、キリストにある幼子に対するように語りました。私はあなたがたに乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたはまだそれに耐えられなかったからです。実際、今でも耐えられません。 あなたがたはまだ肉の人だからです。あなたがたの間にねたみや争いがある以上、あなたがたは肉の人であり、人間のように歩んでいることになりませんか? ある人は『私はパウロに従う』と言い、別の人は『私はアポロに従う』と言う。それでは、あなたがたはただの人ではありませんか?
では、アポロとは何者でしょうか? パウロとは何者でしょうか? それは、あなたがたが信じるに至ったしもべであり、それぞれ主が与えられた任務を果たした者にすぎません。 私は植え、アポロは水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。 だから、植える者も、水を注ぐ者も取るに足りません。ただ成長させてくださる神だけが重要なのです。 植える者と水を注ぐ者は一つの目的を持ち、それぞれ自分の労苦に応じて報酬を受けます。 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑であり、神の建物なのです。」
私たちは、すぐに分裂してしまいます。
それは「正しさ」に執着しているからではないでしょうか。
「正しくあること」、そして「正しいと見られること」にこだわってしまうのです。
しかし、誰が正しいかなんて、何の意味があるのでしょうか?
聖書の中で「正しくなければならない」と神が命じた箇所を探してみてください。
しかし、たとえ正しいか間違っているかに関わらず、互いに愛し合うようにと言われた箇所は見つけることができます。
例えば…
「実は、互いに訴え合っていること自体、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正を受けないのですか?なぜ、むしろ騙されないのですか?」
神が問われるのは、「誰が正しいか」ではなく、「誰が愛しているか」です。
コリント人への第一の手紙12章では、私たちがそれぞれ異なっているが、一つの体の一部であることについて語られています。
実際、私たちはそれぞれ少しずつ違うように造られています。
あなたは手、私は足、誰かは目。
でも、みんな必要なのです。
私たちは雲、ハンマー、木といった、共通点のないものではありません。
私たちは一つの体の部分なのです。
もし、目が「私たちは目でない者を体の一部とは認めない」と言ったら、どれほど馬鹿げたことでしょうか。
私たちは皆同じであり、少しずつ異なっているからこそ、より役に立つのです。
ペテロの第一の手紙2章では、私たちは生きた石の建物であると語られています。
石です。レンガではありません。
私たちはみな同じですが、完全に同一ではありません。
石はすべて「石」です。それぞれ少しずつ違っていますが、それでもすべて「石」です。
それらは一つの建物を形作ります。
もしレンガの建物なら、そこには一様性(uniformity)しかありません。
しかし、私たちは「生きた石」であり、違いを持ちながらも一つになっています。それが「一致(unity)」なのです。
私たちは、違いではなく、共通点に目を向けるべきです。
私たちは皆「生きた石」です。
それってすごいことではありませんか?
あなたは「生きた石」を見たことがありますか?
それなのに、私たちは他のクリスチャンに出会ったとき、「わあ、また別の生きた石に出会えた。素晴らしい!」と言うのではなく…
「あなたは違う。あなたは受け入れられない。」と言ってしまうのです。
では、あなたはどうですか?
共通点を見ていますか? それとも違いにばかり注目していますか?
あなたが求めているのは「一致」ですか? それとも「一様性」ですか?
あなたは「愛している」のですか? それともただ「正しい」だけですか?