始めは
聖書は、世界の創造についてかなりはっきりと記しています(文字通りに読むなら)。
(そして、それが唯一の正しい読み方です。もし文字通りに読まないと、自分の判断でどの部分を文字通り受け取るか決めることになり、すぐに危険な領域に足を踏み入れることになります。)
初めに、神は地球とその周りのすべてを6日間で創造されました。そして、それはたった6,000年前のことです。
実際、聖書は、イェシュアが「生まれる」4,000年前にすでにすべてを創造されたと語っています。
イェシュアは、世界が造られる前からすでに存在していました。
モーセが創世記1章で記した創造の順序は、「ビッグバン理論」とは一致しません。
聖書では、地球は1日目に造られましたが、太陽、月、星は4日目まで造られませんでした。
ですから、現代の進化論的な考え方と聖書の記述を両立させるのは、かなり無理があります。
もともと神は、エデンという素晴らしい園を造り、そこに最初の人間であるアダムとその妻エバを住まわせました。
しかし、エバはサタンに騙されて神に背き、アダムもまた自らの意志で神に背きました。
こうして、罪が世界に入り込みました。それ以来、私たちはみな、親から罪の性質を受け継いで生まれるようになったのです。
また、聖書は、約4,500年前に地球全体を覆う大洪水があったと教えています。
その後、山々は現在の高さに押し上げられました。
ちなみに、洪水の前、人々は非常に長生きしました(洪水の後もしばらくは続きました)。
アダムは930歳まで生きました。つまり、アダムがまだ生きていた時にノアの父が生まれていたのです。
ノアの父は、アダムについて何か聞いたことがあったのでしょうか?
そして、ノア自身も950歳まで生きました。洪水の後も350年生き、アブラハムが生まれる約60年前まで存命でした。
神は人々に、地上に広がり、増えよと命じました。
しかし、彼らは自分たちの計画を優先し、大きな都市を築き、天に届く塔を建てようとしました。
そこで、洪水から100~200年後に神は再び介入されました。
今度は、人々の言葉を混乱させ、互いに理解できなくすることで、彼らが散らばるようにされたのです。
それまでは、地球上のすべての人が同じ言語を話していました。
さらに、その数百年後、神は一人の人物を選ばれました。
彼の名はアブラム、のちにアブラハムと改名されました。
そして、彼の息子イサク、さらにその息子ヤコブ(神によってイスラエルと改名される)を通して、その子孫を神の民とされました。
私たちが「ユダヤ人」として知っている人々です。
その後の出来事は、いわゆる「歴史」となりました。
… というより、最初からすべてが歴史だったのです。
聖書
聖書は実際には約70の書物と手紙の集まりです。 そのうち約40は、イエシュアが生まれる前にユダヤ人のために書かれました。残りの約30は、イエシュアが死んだ後にクリスチャンのために書かれました。 紀元4世紀頃、その時代のキリスト教の指導者たちがさまざまな書物や手紙を集めました。 そこから現在私たちが持っているものを正統なものとして選び、一つにまとめたものが「聖書」です。
最初のグループは「旧約聖書」と呼ばれます。これは「古い契約」という意味です。 モーセ(紀元前1400年頃)から始まり、ダビデ王(紀元前1000年)、そしてマラキ(紀元前400年)まで、さまざまな人々によって書かれました。 この中には多くのユダヤの歴史、詩、歌、そして興味深い預言が含まれています。 神が世界を創造してからイエシュアが生まれる直前までの神の物語が描かれています。
二つ目のグループは「新約聖書」と呼ばれます。これは「新しい契約」という意味です。 イエシュアが新しい契約を記し、それにより神が以前とは異なる方法で人々と関わるようになりました。 これらはイエシュアの時代のさまざまな人々によって書かれました。彼らのほとんどはイエシュアがイスラエルを歩いていたのを実際に見た人々でした。 新約聖書の「書物」の多くは、教会や個人に宛てた手紙です。これらの手紙は、現在のトルコにあたる地域のさまざまな場所へ送られました。 この書物はイエシュアと教会の物語です。 多くの手紙が書かれており、それらはさまざまな事柄を説明しています。 最後には、イエシュアの弟子の一人が受けた終末に関する啓示が記されています。これは少し理解が難しいかもしれませんが、読んでみると興味深い内容です。 神がイスラエルと教会を通して何をなさっているのかを理解すると、その内容も自然と見えてきます。
どこから読み始めればよいかわからない場合は、「マルコ」または「ルカ」を読むとよいでしょう。 これらにはイエシュアの地上での生涯の物語が記されており、比較的読みやすいです。
読むときには、それが聖書のどの部分なのかを意識してください。 ユダヤ人に適用されることが、必ずしもクリスチャンに適用されるわけではないため、時々混乱することもあります。 新約聖書の中でも、イエシュアが地上にいた時の話は、彼がユダヤ人と話している場面が多くあります。
聖書はできるだけ頻繁に読むようにしましょう。 1日4章読めば、1年で全体を読むことができます。 パウロは「霊的な真理は聖霊によって明かされる」と言いました。 そのため、何かが分かりにくかったり混乱したりしても、焦る必要はありません。 いつか聖霊がその意味を明らかにしてくれるでしょう。しかし、忍耐強く待つことが大切です。
もう一つ助けになるのが、他のクリスチャンと一緒に聖書を学ぶことです。 おそらく、あなたの教会で聖書勉強会が開かれているでしょう。 もしなければ、友人や尊敬できる人に相談すれば、何かしらの学びの場を見つけることができるはずです。 聖書を深く理解するための良い方法です。 聖書は、神がご自身について明かされる唯一の書物です。 聖書を学ぶことは、神を知る最良の方法です。
聖書勉強会の仲間は、あなたのことをよく理解し、友情を築くことができます。 それは若いクリスチャンにとっても、大人のクリスチャンにとっても大きな支えとなるでしょう。
もう一つ、聖書を活用する素晴らしい方法は、暗記することです。 「ナビゲーターズ」という団体が「トピカル・メモリー・システム」という素晴らしい教材を提供しています。 これは聖句カードと学習冊子のセットで、重要な聖句を暗記するのに役立ちます。 非常におすすめです。さらに、友人と一緒に取り組むと、より効果的です。 自分で名刺サイズのカードを作り、プリンターで印刷してもよいでしょう。
ですから、聖書を読み、学び、暗記し、話し合い、そして何よりも、それを実生活に適用しましょう。 聖書は、あなたの人生を本当に変えることができる書物です。
無げな弟子になる
今日、さまざまな弟子訓練プログラムが提供されています。その多くは非常に価値のある内容を含んでいますが、すべてのクリスチャンにとって弟子訓練プログラムという概念は聖書的なのでしょうか?
申命記6章には、次のように書かれています。
「私が今日あなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちに繰り返し教えなさい。家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、語り合いなさい。これを手に結びつけて記章とし、額に置いて覚え、家の戸口の柱や門に書き記しなさい。」
旧約時代、イスラエルの子どもたちは神の律法を「自然に」学ぶように教えられていました。正式な授業や講義ではなく、家庭で親と共に過ごす中で、寝る時も起きる時も、生活の中で神の言葉を聞くことができました。これらの律法は目に見える形で示されており、額に結びつけられ、家の戸口や門に書かれていました。子どもたちはどこへ行っても、何をしていても、神とその律法について学ぶ機会があったのです。
例えば、父親と羊の世話をしている時、「神はイスラエル全体の羊飼いである」という話ができたかもしれません。母親と一緒にパンを焼く時、「エリヤとやもめの壺の粉が尽きなかった話」をする機会があったかもしれません。親は、日常の機会を活かして子どもたちに神の道を教えていたのです。
同じように、新約時代においても、イエシュアはこの方法で弟子たちを訓練しました。彼は26週間の水曜夜の学びの会を開いたわけではなく、数年間、弟子たちと共に生活し、あらゆる機会を活かして教えました。
新しく信仰を持ったクリスチャンは霊的な子どもです。彼らが神について学ぶ最善の方法は、成熟したクリスチャンと共に時間を過ごし、神の性質や御業について常に語られる環境にいることです。例えば、新しいクリスチャンが夕食の買い物を手伝う時、霊的な実について話すことができます。午後のコーヒータイムで「学校にいる魅力的な異性」について話す時、神の関係の原則について教えるチャンスがあります。このような機会は、彼らの今の状況に即したものなので、より深く心に響きます。わざわざ「クリスチャン弟子訓練の第7週目」まで待つ必要はありません。
学びにおいて最も重要なのは、それが学ぶ人の必要に即しているかどうかです。時にはその必要が明白なこともありますが、多くの場合、本当の必要は深く関わらなければ分かりません。週に1回、1〜2時間の学びと、日曜礼拝の短い挨拶だけで深い関係を築くのは難しいですが、一緒に過ごす時間が長ければ、自然と深い関係が築かれます。
「学びの第13週だから断食について学ぶ」のではなく、「マタイ6章を読んで聖霊が心に触れたから断食について学ぶ」ほうが、はるかに深い人生の変化につながるでしょう。
もちろん、成熟したクリスチャンとして、弟子に伝えたい内容の計画を持つことは重要です。しかし、問題は「いつ、どのように」伝えるかです。「いつ」は、必要に応じて適切なタイミングで。「どのように」は、深い関係を築いた上で、効果的に教えることです。多くの教えは、彼らが共に生活する中で自然と身についていくものです。例えば、祈りについて多くを教えなくても、彼らが私たちと一緒に頻繁に祈ることで学んでいくでしょう。
しかし、この方法には一つの課題があります。それは、私たち自身が「知識を備えておく必要がある」ということです。たとえば、弟子が突然「霊的戦い」について質問してきたとき、3週間後の学びの準備をする時間はありません。彼らの人生の危機が今起こっているなら、「明日また来て、一緒に学ぼう」と言えるように、基本的なことは今すぐにでも話せる必要があります。もし「2週間後まで待って」と言ったら、その時には戦いが終わり、弟子はすでに敗北してしまっているかもしれません。
イエシュアのように—弟子を持つことは、水曜日の夜1時間だけの学び以上のものです。時には不便に感じることもあるかもしれません。しかし、次世代の教会は今、私たちの注意を必要としています。現代社会はますます忙しくなり、この弟子訓練の方法は、私たちのライフスタイルに合わないかもしれません。弟子と一緒に「ただ関係を築くための時間」を取る余裕がないと感じるかもしれません。しかし、重要なのは「私たちのライフスタイル」か、それとも「次世代のクリスチャンリーダーの成長」か、どちらでしょうか?
週に一度の学びの時間も弟子訓練の一部にはなるかもしれません。しかし、もしあなたが成熟したクリスチャンなら、弟子と共に生きることで、彼らの霊的成長はまったく新しい次元へと変わるでしょう。
弟子と共に生きましょう。音楽、書籍、秘密、あなた自身を分かち合いましょう。深い関係を築き、あらゆる機会を活かして、彼らにとって意味のある方法で、力強く教えていきましょう。
ヤウエ様
興味深いことに、上記の名前は神様の名前ですが、近代的な聖書の中では、使ってありません。なぜだと思いますか。
神様は、日本語の聖書で「主なる神」と呼びます。元の旧約聖書がヘブライで書きました。ヘブライの文書の中で神様が「 יהוה (ヤウエ)」と呼びます。神様が名前を教えていただいたから、神様の名前ですから、ヤウエ様と呼びましょう。原語は、「主なる」じゃなくて、「ヤウエ様」です。
なぜ、日本語の聖書で違いますか。
本当によく分からないですが、百年紀元前ぐらい、七十人が、ヘブライからギリシャ語に旧約聖書を訳しました。その訳しでは、「ヤウエ」を「主」に訳しました。その訳しは、「七十人訳聖書」と呼びます。英語で、「Septuagint」や「LXX」と呼びます。その時代では、ユダヤ人が律法主義の人々でした。十誡の第三戒律は、「あなたのヤウエ神の名前を悪用してはいけません」と書いてあります。その時代の律法主義のユダヤ人が神様の名前を悪用したくなかったんです。そして、全然神様の名前を使わなかったんです。決して言いませんでした。むしろ、「主」と言いました。それから、七十人訳聖書を訳した人々がヤウエ様の名前も書きませんでした。「主」と書きました。
たぶん、日本語の聖書を書いている時は、同じ考えを使いましたでしょう。そして、「主」や「主なる神」とまた使いました。
神様は、名前があります。ヤウエ様と呼びます。ヤウエ神です。その名前は日本語の聖書の中ではありませんけど、神様の名前です。旧約聖書で主を読めば、ヤウエ様と思いつきなさい。いっしょうに話し合えば、神様はヤウエ様と呼びなさい。
ところで、旧約は、クリスチャンのためにじゃないんです。ヤウエ様とユダヤ人の 盟約です。クリスチャンのほうは、新約があります。新約は、十字架でキリストが作りました。分からない場合、この記事を読みなさい。 クリスチャンの法則 と 新約は旧約を取り替える
ヤウエ様が「名前を使ってはいけません」と言いませんでした。「名前を悪用をしてはいけません」と言いました。違いますね。神様の名前を使わなけば、律法主義に成りました。
私たちはクリスチャンですから、十誡が当てはまらない。指針だけですから、律法主義にならないように頑張りましょう。神様の名前を使えましょう。「ヤウエ様の人々」と呼んだ人々に成りましょう。
どうすればいいですか。
以前間違ったでしょうか。変わりにくカも知らないけど、変わりましょう。今から、神様はヤウエ様と呼びましょう。どうと思いますか。
列王記下22で、ヒルキヤ王は宮に書物を見つけましたら、本の中の生活が違うと気付きました。そして、皆さんが生活を変わりました。大切だし、大きいだし、生き方ですけど、変わりました。ヤウエ様の住み方と違うから、全て変わりました。
私たちも、「ヤウエ様」と呼ぶのは、難しいし、不便だし、変わりにくいですけど、正しいですね。だから今から、変わりましょう。
カタカナを使えば、日本人は、「外人の言葉だ」と思います。カタカナの名前を使えば、「外人の神だ」と思うでしょう。しかし、ヤウエ様が外人の神ではありませんね。全ての国の神です。世界の神です。それから、漢字の名前が欲しいだと思います。
漢字では、ヤウエ様は、「矢上様」を書いてもいいですか。音が同じし、意味もいいだと思います。
引き寄せる対迎える教会種類
すべてな教会は違います。いいことです。
でも教会は二つタイプだけです。
大体「引き寄せる」タイプです。クリスチャンじゃない人々を引き寄せる、教会に来て福音を聞いて新じります。そのために上手な音楽があるし、素敵な建物があるし、する事なす事が楽しいします。ピントは、クリスチャンじゃない人は好きものになります。クリスチャンじゃない人が教会に来ます。「人を引き寄せる」な教会です。
色々な工夫をして人々を引き付けます。
(最近日本の教会では、英語な作戦が人気になったけど、その記事を読んでください。)
この教会の会議は、楽しいし、面白いし、クリスチャンじゃない人々のためにです。
この教会の伝道は、教会の建物の中に起こります。大体同じ少し人だけがすることです。
リーダーが働いていますけど、メンバーが観客だけです。
他の教会の種類は、「迎える」教会です。ここでは、教会のクリスチャンが教えた。(師資相承です)。教会のクリスチャンはクリスチャンじゃない人に行きます。どこでも、いつでも、関係を作って行きます。「クリスチャンが押す」教会です。キリスちゃんじゃない人を迎えて教会に一緒に帰ります。
教会の会議は、クリスチャンのためにです。
この教会の伝道は、教会の建物の外に起こります。リーダーだけじゃない、大体全部な教会のクリスチャンがする。
この教会は、みんながチームです。みんなが神様のために働いています。
あなたの教会は、「引き寄せる」タイプですか。「迎える」タイプですか。
どう変わられますか。
教会話
宣教師が日本に来た時、日本語がペラペラじゃなくて、早く人を集めたくて、送ったエージェンシが監視する。大きい問題です。プレッシャーが多くて緊張し過ぎ。どうすればいいでしょうか。
日本では英語が人気と、大体宣教師が英語ネーティブです。簡単道は、無料英語のレーソンを捧げる。バイリンガル教会を捧げる。アトラクティブでしょうね。簡単でしょうね。
英語の練習がしたい日本人が来ると、宣教師は福音の説明するチャンスがあります。問題が解きました。
毎週そうすれば、どんどん教会で集まる人が増える。神の国が来ているようですが。。。
この教会は、教会ですけど、絵会話と似ます。「教会話」になりました。
この教会は、英語の先生が必要になりますね。宣教師がさて行けば、誰が教会を導きますか。
新しい教会が始めたくなる場合、誰が新しい教会を導きますか。
この教会の種類は、日本人が導けられせん。この教会は、日本人が写せられません。
日本では、英語が好きな人の割合は、どのぐらいでしょうか。
1割以下でしょうか。
9割の日本人は、「絵会話」を興味がないでしょうか。
誰には、ヤウエ神が宣教師を送りましたか。英語が好きな1割だけですか。
日本では、「キリスト教は、西洋な宗教だ」と思われますね。
教会話の教会では、この考えが強化します。
この教会で、クリスチャンが大体浅いでしょうか。
(実は、西洋の教会でも、この問題があります)。
でも、この教会の人々は、英語の習うのは、大切なことです。
最後、この教会は、日本の文化じゃないですね。
人の心が届けたくなら、あの人の文化を使ってなら、効果的ですね。
中国で、中国の文化の教会があります。
アフリカで、アフリカの文化の教会があります。
なぜそうだと思いますか。
世界で宣教師の歴史は、文化で福音の説明が見つければ、教会の人が増えた。
文化で福音の説明が見つけなくなら、教会の人が増えにくかったです。
「教会話」を止めましょう。
全部の日本人のために、日本語で、日本の文化の教会が建てましょう。
キリストの福音で、日本人の心を届けましょう。