祈りとは、基本的に神との対話です。
それは買い物リストでもなければ、サンタへの願い事リストでもありません。「これが欲しい… あれも欲しい…」ではなく、会話なのです。まずは、神の声に耳を傾ける時間を持ちましょう。
神の声を聞く方法にはさまざまな形がありますが、それはまた別の機会に説明します。最も簡単なのは、聖書を開き、そこから神が語ってくださるように祈ることです。
時には、神に先に話してもらうのもよいでしょう。結局のところ、神は神であり、あなたはただの人間です。自分の国の王や大統領と話す機会があれば、まずは相手に話してもらおうとするでしょう?
また、グループで祈るときに、祈りの中で生まれた疑問を他の人に尋ねるのも問題ありません。祈りは対話なのですから。
目を閉じなければ祈れないわけではありません。聖書に出てくる祈りの場面では、人々は天を仰ぎ見たり、地面にひれ伏したりしていました。しかし、集中するために目を閉じるのが有効な場面もあります(特にグループで祈る場合など)。
私は、自分が本当に関心のあることだけを祈るべきだと考えます。エリヤは「雨が降らないように」と熱心に祈り、それは何年も実現しました。
もし「祈るべきリスト」があるなら、最初に目を通して、その中で心に残ったものだけを祈りましょう。聖霊はあなたの内にいます。聖霊はあなたの心に語りかけ、あなたが祈らずにはいられないように導かれます。
神の前では偽る必要はありません。感情を押し隠すことなく、正直な気持ちを打ち明けましょう。神はあなたの父なのです。
パウロは「絶えず祈りなさい」と言いました。これには慣れるのに時間がかかるかもしれません。今は、祈りたいと感じたときに祈ればよいのです。あるいは、祈りたくないときこそ祈るのもよいでしょう。ただし、祈れなかったことを気に病む必要はありません。
祈りには多くの形式主義が存在します。その罠にはまらないようにしましょう。
よく人々が祈りの終わりに「イエシュアの名によって、アーメン」と言います。
「アーメン」は「その通りです」という意味であり、祈りが終わったことを他の人に伝える合図にもなります。
「イエシュアの名によって」と言うのは、イエシュアが「私の名によって求めるなら、父がかなえてくださる」と語ったからです。しかし、単なる締めの言葉として形だけ付け加えるものではありません。
昔、王たちは公文書に自分の印章を押すことで、その命令が正式なものであることを示していました。そして、王が自分の代理人に権威を与えるとき、その印章を授けました。その代理人が何かに王の印を押せば、それは王の命令と同じ重みを持ちました。
イエシュアが「私の名によって求めなさい」と言ったのは、これと同じことです。私たち自身には、神に何かを求める権利はありません。しかし、イエシュアがその権利を私たちに与えてくださったのです。だから、「イエシュアが言うように、私の娘の癒しを願います」と祈ることができるのです。
しかし、これを単なる魔法の言葉のように扱う人もいます。私は時々、意図的に祈りの中で「イエシュアの名によって」と言わないことがあります。ただし、心の中では「私が神に聞き入れられる唯一の理由は、イエシュアの名によるものだ」と知っています。
また、祈るときに声のトーンや態度を変える人がいますが、そんな必要はありません。ありのままで話せばよいのです。
沈黙があっても気にしないでください。それは対話なのです。祈りの中で「主よ」を何度も繰り返す人もいますが、それで間を埋める必要はありません。私はそれが少し気になりますが、イエシュアは私よりも寛容でしょう。
自分の祈りを録音して、あとで聞き返してみるのも良い練習になります。
最後に、祈らなくてもよいこともあります。
例えば、神は「食べ物、住まい、衣服を保証する」と言われました(マタイ6章を読んでください)。それは「願えば与えられる」ものではなく、子どもが親を信頼するように、当然与えられるものです。
また、「神が共にいてくださるように」と祈る人もいますが、考えてみてください。聖霊はすでにあなたの内に住んでいます。神があなたと共にいないはずがありません。
このようなことは他にもあります。探してみてください。
あなたが神に聞き入れられる唯一の理由は、イエシュアの名によって祈るからです。
導かれるままに、できるだけ頻繁に祈りましょう。できるだけ声に出して祈りましょう。自分のためよりも、他の人のために祈りましょう。仲間と共に祈りましょう。そして、祈り続けましょう。