聖書で「教会」と訳されている言葉は、ある目的のために呼び集められた人々の集まりを意味します。
教会は建物ではなく、クリスチャンの集まりです。
(英語では、クリスチャンが普段集まる建物のことも「教会」と呼びますが、ここでは聖書における本来の意味、つまり人々のことに焦点を当てましょう。)
聖書には、教会の仲間とどれくらいの頻度で集まるべきかについての決まりはありません。
だから、自分の好きな頻度で集まることができます!毎日でも大丈夫です。
使徒言行録の初めのほう(教会の最初の時代の物語)では、彼らは毎日お互いの家で集まっていました。読んでみてください。素晴らしいことが起こっていました。その場にいられたらどんなに素晴らしかったことでしょう。
また、使徒言行録では、彼らが集まるときには、教えを受け、互いに交わり、食事をし、たくさん祈っていたことが記されています。
現代の多くの教会とはかなり異なる内容かもしれませんね。
ですが、集まったときに何をすべきかについての決まりはありません。大切なのは、共に集まることです。
教会にとって最も重要なことは、もしあなたがクリスチャンであるなら、あなたはすでに教会の一部だということです。
ローマ12章やコリント第一12章では、教会はひとつの「体」のようなものだと語られています。
ある人は腕、ある人は足、ある人は目、耳… そして、頭となるのはイェシュアです。
彼がすべてを導いておられます。
私たちは文字通り、地上におけるイェシュアの体であり、彼の手や足なのです。
神はあなたを、彼の教会にぴったりと合うように造られました。
ですから、自分がどの部分なのかを見つけることが大切です。
もし分からなければ、年上のクリスチャンや教会のリーダーに相談してみてください。
そして、自分がその役割を最高に果たせるように努力しましょう。
もし実務的なことが得意なら、それを大切にしてください。
もし人々を導くのが得意なら、それに集中してください。
もし祈ることが得意なら、祈りを大切にしてください。
自分が好きなことを考えてみてください。
それを教会の一部として活かせる方法を探しましょう。
もし何をすればいいか分からなくても、大丈夫です。
いろいろなことを試しながら、自分にぴったりの役割を見つけていけばいいのです。
必ずどこかにあります。
教会の役割は、この世界にイェシュアがどのようなお方であるかを示し、生き方を通して伝えることです。
そして、人々にイェシュアを知らせ、彼らも教会の一員になれるようにすることです。
イェシュアは言われました。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。そうすれば、世界はあなたがたがわたしの弟子であることを知るでしょう。」
あなたの教会の人たちを知り、愛しましょう。
それには努力が必要ですが、きっと方法が見つかります。
神が助けてくださいます。
ですから、できるだけ頻繁に教会の人たちと集まりましょう。
ただの「集会」ではなく、一緒に食事をし、祈り、時間を共に過ごしましょう。
愛してください。
教会を愛してください。
そうすれば、すべてがそこから流れ出していくでしょう。